はじめに
こんにちは。"TOKYO STORY"オーナーで精神科医の974と申します。
前回は「生きる意味」を問われた当直でのエピソードを紹介しましたが、今回は少し心温まるエピソードを紹介できればと思います。
前回に引き続き、研修医時代の精神科研修でのエピソードをお話ししてみようと思います。
初診患者の診察室で
今回は、精神科の初診患者さんの診察でのエピソードです。
精神科では、初めて受診する患者さんのことを「初診患者」と呼びます。
これは別に、内科でも耳鼻科でも変わらない話なのですが、精神科における「初診」は少し違った意味合いを持ちます。
精神科の初診では、他の科と違い、患者さんにかなりの時間と労力をかけます。というのも、精神科の初診は「生い立ち」「学歴」「これまでのエピソード」など、あらゆる人生に関わる情報を聴取し、診断や治療につなげていくからです。
ちょっと風邪を引いた時にかかる内科クリニックのように「風邪ひいた」「風邪薬出しましょう」というわけには行かず、延々と情報聴取や検査をするため、初診患者さんには1時間近く、場合によっては半日近い時間を割くことになります。
そのため、私の研修した病院では「予診」と言って、情報聴取を下級医が行い、そこから上級医の「本診」をするという、よくあるシステムを採用していました。
私はその「予診」役として、あるおばあさんの診察をすることになりました。
認知症疑い
その患者さんは娘と一緒に来院し、娘の訴えとしては「物忘れがひどく生活ができない」というものでした。
いわゆる「認知症状態」が強く疑われる患者さんだと考えました。
診察に2人を呼び込むと、穏やかそうなおばあさんは、私に挨拶をしてくれました。一見、普通に見えますが、どんなことがあったのでしょうか。
「これまでのお話をお聞かせ願えますか」
私がそう聞くと、誠実そうな娘さんは、心配そうな顔をして母の生活が不安定なことや、物忘れがひどいことを語り始めました。
認知症のスクリーニング
色々と情報聴取をしたところ、母親と娘さん夫婦が同居しており、そこでの生活が危ぶまれたために病院に連れてきたということがわかりました。
私は「認知症状態が疑われるので、簡単な検査をしましょう」と言って紙を取り出しました。
これは「MMSE」と言われる検査用紙で、30点満点の質問項目を用いて認知症のスクリーニングをするものです。計算、図形、見当識などのいくつかの質問がなされ、23点以下は「認知症疑い」とされます。
散々な結果に
私はおばあさんだけを診察室に残し、早速質問を始めました。
「それでは、いくつか質問をしますね。今日は何年ですか」
「うーん・・・」
普通そうに見えたおばあちゃんでしたが、今の日付すらもあまりわかっておらず、短期記憶もほとんど保たれていないようでした。
「これは散々な結果になりそうだ」
私は質問を進めながら、おばあちゃんの認知症状態がひどい段階に達していることを察しました。
先ほど不安そうな顔をしていた娘さんのことを思うと、心が痛みました。
意外な言葉が
検査が終盤に達した時でした。
「MMSE」には、「自発書字」と言って、「何か文章を書いてください」という項目があります。
これは、文章を構成する能力を評価する検査項目で、「今日はいいお天気ですね」などの簡単な文章を書く人が多いです。
「ここに何か文章を書いてもらえますか」
私がそう言うと、おばあさんは、ゆっくりとペンを手にとって文字を書き始めました。
じっくりを文字を書き進め、顔を上げた時、そこにはこんな文章が記されていました。
「きょうは、娘に、連れてきてくれてありがとうといいたい」
「めいわくをかけて、ごめんなさい。娘に、そうつたえたい」
検査を進めていくにつれて失点が相次ぎ、「おばあちゃん、大丈夫かな」と心配になっていた私は、この言葉に心を打たれました。
どんどん進行していき、基本的な脳の機能すら奪っていく認知症でさえも、「娘を想う母の気持ち」を奪っていくことはできなかったようです。
「永遠の愛」とはこのことだな、と私は思いました。
もちろん残酷なことに、認知症が進行すると、そうした長期記憶や家族の顔すらも思い出せなくなってしまうこともあります。
けれども私は、この親子の関係が、これからも幸せなものであってほしいと思わずにはいられませんでした。
結局、本診ではアルツハイマー病の診断となり、おばあちゃんには抗認知症薬の処方が始まったと記憶しています。