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【英語学習法】非帰国子女の高校生が独学で英検1級を取得した話〈第12回 1級を取得して良かったこと・悪かったこと 〉

 

4回もの受験、3度の不合格の末、ようやく英検1級を取得することが出来た私。その過程を通して、学んだ事は沢山ありました。

取得して良かったと思えたこと、悪かったこと。

果たして、大きな労力を支払ってまで受ける価値があったのかどうか――。メリットとデメリットを、まとめてみたいと思います。

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英検を取得して学んだこと(良かったこと)

高い英語運用力が身につく

これは英語の資格試験なので当たり前といえば当たり前ですが、やはり大きかったのは英語力が付いたこと。

英検1級には、他の級やTOEICなどの試験では問われないような、総合的な英語力が求められます。

苦戦したエッセイライティングやスピーチ、分量の多い長文やリスニング、ハイレベルな語彙。いずれも日常運用には十分過ぎるほどです。

また、英検1級を取得できるレベルがあれば、会議などで発言したりプレゼンをしたり、専門的な内容の対話をしたりと、かなり運用の幅が広がります。

自分ひとりでそこまで一生懸命追い込んで勉強する事は大変ですが、こうして「1級」という目標があるからこそ、モチベーションが生まれるのも事実。その動機付けとして、級を目指す価値はあると考えます。

「英検1級」という「肩書き」がもらえる

私が英検1級を取得して、何よりも大きなメリットに感じているのがコレ。

それは嫌らしい言い方ですが、「英検1級」という「肩書き」を手にしたこと

そして「肩書き」の重要性を感じたことです。

 

簡単に言えば、「1級を持っている」という事で、キャリアを積んだりするうえで、優遇してもらえることが増えたということ。

私は時々、塾で中高生を教えていますが、「1級ホルダー」として紹介されることがあると、生徒たちが私を見る目が変わるのを感じます。

 

というのも、英検1級というのは、海外経験のある帰国子女ですらざらに不合格になる、合格率1割の難関資格。

そんな「1級を持っている」ということは、「ある程度の英語運用力がある」という分かりやすい証明、つまり「肩書きを手にすること」でもあるのです。

 

世の中ではよく、「肩書きや結果がすべてじゃない!」という、綺麗事じみた言葉が良く叫ばれています。

「綺麗事」と言ってしまいましたが、私もその言葉を否定するつもりはありません。

肩書きや地位、結果や経歴といった表向きの情報だけで人を判断し、人の努力の過程や本質を見ようとしない。そんな態度はあまりにも愚かです。

どんなに素晴らしい人でも、努力しても報われない、表向きの結果が出ない、ということなんて、多々あるもの。

ですから、表面上の肩書きだけにとらわれることは、明らかに無意味かもしれません。

 

ではなぜ、わざわざ「肩書きがすべてじゃない!」なんて言葉が叫ばれるのか。それは、世の中に溢れる情報を見ればわかります。

「年間売り上げ1位、〇〇賞を受賞の△△」「甲子園で4番を任された××選手」「東大卒、〇〇省官僚の△△氏」

そう。何かの価値を高めようとする賛辞表現には、すべてキャッチーな「肩書き、ラベル」が使われているのです。

そして「昨年の年間売上1位、〇〇賞受賞」と書かれた本に、つい手が伸びてしまう経験は、きっと誰にでもあるはず。

たとえそれが「去年の売上」「受賞した」という、単なる「過去の栄光」であろうとも、私たちの心は揺らいでしまいがちです。

それはなぜかというと、端的でキャッチーな情報なしに、物事を判断するのが難しいから。

逆にそうした端的な情報は、短時間で何かを伝えるのに非常に便利であるからこそ、「肩書きがすべてじゃない!」と叫ばれる状況が生まれているのです。

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ドラマ「水戸黄門」の名シーンを思い出してみてください。

水戸黄門様が印籠を懐から取り出し、それを目にした悪党どもが一斉にひれ伏すあのシーン。

たかが印籠というお薬のケースを見せつけただけで、なぜ悪代官どもが突然ひれ伏すか。

それは、そこに徳川の象徴、葵の紋が描かれているから。目の前にいる老人が、強大な徳川家の権力を帯びた元水戸藩主、光圀公だと知るからです。

そうでなかったら、目の前にいる老人など、ひとひねりにされて物語は終わってしまうでしょう。

このクライマックスには、「徳川家」という、強力な肩書きがポイントになっているのです。

 

就職試験だってそうです。

とある企業の就職説明会では、一定以上の偏差値の大学卒以外の応募者には、すべて「満席」として表示され、そもそも説明会に申し込むこともできなかったそう。

「学歴」という端的な肩書きだけで、応募者が選別されてしまうのです。

申し込めなかった応募者の中には、上位の大学卒の応募者よりも優秀な人もいたかもしれません。

けれども、多数の応募者がいる中で、それを一人一人評価している暇は企業にはない。

ということで、簡単にスクリーニングできる「肩書き」が利用されてしまった例です。

こうして「過程」や「本質」を見てもらえず、「肩書き」だけで判断されてしまうのは、される方にとってはたまったもんじゃありません。

「肩書きがすべてじゃない!」と叫びたくなるのも分かります。

けれども、それを裏手にとって、自分にとって有利に物事を運ぶこともまた、可能なのです。

 

私が思う「英検1級」という資格試験を取ることの大きな価値は、

「肩書き」を手にして、自分の英語運用能力を「端的に示す」こと。

そうすることで、就職やキャリア形成などでアドバンテージを得たり、チャンスを勝ち取ったりすることが目的なのです。

英検の募集のパンフレットにも「受験や就活に有利!」なんて書いてあるように、そうしたメリットがある事はみんな承知済みかもしれません。

けれども、なぜ今更そんなことを言うかというと、それは1級が持つ「肩書き」としてのパフォーマンスが大きいから。

わざわざマニアックな1級を取ろうとする人自体少ないですし、最終的に突破できる人も少ない。そこに他と差別化された希少価値が生まれるのです。

しかも、時間が経って英語力が鈍ろうが、覚えた単語を全て忘れようが、その強力な肩書きが消えることはありません。

 

 

乱暴に言えば、ただ英語力を磨くだけであれば、わざわざ高い受験料を支払い、何も英検なんぞの資格を取る必要はありません。

1人で教本を買って勉強して、勝手に英語力を身につければいいだけです。

(もちろん、級を目指すという「学習の目標設定、モチベーション」として有意義だとは思いますが)

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いやらしい言い方かもしれませんが、「肩書きを得た」という事が、苦労して1級を取得した最大のメリットだと私は思っています。

(ただし、これは日本国内限定。海外では「肩書き」としての効果はナシ)

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登ってみないと、景色は見えない

私が英検を受験して、学んだもうひとつの事。

それは、「その場所にたどり着いてみないと、見えない景色がある」ということ。

今でこそ、「1級を取得した話」なんて偉そうな気色悪い記事を書いている私ですが、塾の先生に無言で単語帳を渡されるまで(第4話参照)、1級を受けるなど考えてもいませんでした。

というのも、わざわざ膨大な労力をかけてまで、わざわざ取る必要があるのか?と思っていたから。

負け惜しみでもなんでもなく、使いもしなさそうな専門用語を覚えたり、スピーチの試験をくぐり抜けてまで、1級を取得するモチベーションが湧かなかったのです。

けれども実際に多くの労力を掛けて取得してみて、その行動に後悔をしたことはありません。

なぜなら、実際に頑張って1級を取得してみたことで、学んだこと、見えてきたものがたくさんあるからです。

先ほど述べた「肩書き」の件はもちろんですが、取得したことによってはじめて視野に入ってきたことも様々。

あれほど「使わないだろ」と言っていた難解な単語たち(第5回参照)も、実際に海外に行ってみるとよく新聞で見かけたりして、「全然使うじゃん」と思うことも多々ありました。

今考えてみると、取得もしていないのに「使わないだろ」「時間と労力の無駄」なんて言っていた自分は、「何様だ?」という感じ

実際にその場所に立っていない人がとやかく言うのは勝手ですが、そんなものはあくまで想像であって、

そこから見える本当の景色は、実際そこに苦労して登った人にしか見えないのです。

 

自動車の免許を例にして、考えてみてください。

教習所に通うとき、MTとATのどちらを取得するかで迷うかもしれません。

AT限定の方が費用は安価だし、簡単です。今時MTを運転する人は少ないですから、「ATでいいや」と考える人も多いでしょう。

けれども、ATで満足した人は、MTだからこそ味わえる運転の醍醐味、楽しさを実際に知ることは一生ありません。

(拍子抜けするようですが、私はAT限定免許です)

さらには、

「昔から夢だったスポーツカーが限定で売りに出されているが、そのシリーズはMTしかない」

もしそんな絶好の機会が訪れた時、MT免許を持っている人は迷わず、その車を手に入れるかもしれません。

けれどもAT限定の人は厄介です。仕事で忙しい中、わざわざ金を払って教習所に通い直し、AT限定を解除してもらうという「壁」を乗り越えなければならなりません。

そうなると、「面倒くさいからもういいや」となってしまう人も多いのではないでしょうか。

いざ腰を上げて教習所に通ったとしても、買おうとした限定車は大人気で、免許を取ったらすでに完売していた。そんなこともあるかもしれません。

「チャンス」とは、そういうものだと私は思います。

(しつこいようですが、私はAT限定免許です)

上の話はただの例え話ですが、実際のところはどうでしょうか。

「ワシは日本から出るつもりはないから、英語なんぞ話さんでも生きていけるワイ」

英語学習の話になると、私はそういう意見をよく耳にします。

その意見は至極ごもっとも。日本はどこかの国の植民地ではありませんし、自国の言葉に誇りを持って堂々と生きていくのは良いことだと言えます。

日本国内で日本語だけを話していれば、大抵のことは十分完結します。ヒイヒイ言いながら外国語を勉強して、わざわざ日本から出る必要もありません。

何なら、自分の住んでいる町や地域から出なくても、十分に生きていくことが出来ます。実際、交通機関が発達した近代になるまでは、多くの人はそうやって暮らしてきたのではないでしょうか。まさに「井の中の蛙で何が悪い」といった感じです。

けれどもそれはあくまで「必要かどうか」の話。外国語を学んで新しい世界を覗いてみることは、「必要」ではないかもしれませんが、「できたら素敵」なことかもしれません。

もちろん、良いことばかりとは限りませんが。

良し悪しはともかく、そうした新しいことに対する「貪欲さ」が無ければ、日本は今頃鎖国をしたまま、将軍様の江戸幕府が続いていたかもしれません。

「英語を勉強しろ」なんて誰かに言われることはなかったでしょうが、インターネットやテレビ、車だってもちろんなかったでしょう。海外から医療が入ってくることもなく、結核にかかったら最後、成す術もなく血を吐いて死んでいくのが関の山でしょう。当時はそれが当たり前でした。

今でこそ、カフェでWi-Fiやコンセントの有無を気にして、「何だよ、Wi-Fi飛んでないと作業できねえじゃんかよ」なんて文句を垂らす私たちですが、江戸時代の街の茶屋にWi-Fiが飛んでいなくても、電気が通ってなくても、当時の江戸っ子たちは文句は言わないでしょう。スマホも電波も電気も、それがあれば便利だという考えすら、彼らの頭の中にはないでしょうから。

 

それと同じで、私がもしあの時先生にそそのかされず、準1級で満足していたら、スピーチの試験で経験を積むことも無かったでしょう。

エッセイライティングの勉強をする機会も無かったかもしれませんし、単語力だって、今より格段に少なかったはずです。もちろん、こんなシリーズの記事を書くこともなかったでしょう。でも、それが私にとっての当たり前になっていたでしょうから、別段困る事はなかったかもしれませんが、それ以上の進歩をすることはなかったでしょう。

私たちの時間は有限ですから、「必要なさそうなものは、手に入れなくていい」という合理的な考え方はもちろん大切です。

けれども、「自分には不要」というのは、あくまでも想像にすぎません。

「必要かどうか」だけで全ての物事を判断していたら、いつの間にか「井の中の蛙」状態に陥ってしまうことがあるのです。

何かを実際に手に入れることによって、初めて見えてくるものがあり、予想だにしなかったチャンスや進歩が生まれることがある。

そういう考え方も必要だということを、私は1級の受験を通して学んだ気がします。

それ以降、私は東京スカイツリーに上る際は、地上350mの「天望デッキ」だけで満足せず、必ず追加料金を払って地上450mの「天望回廊」に登るようにしています。

東京タワーに関しては、もうトップデッキに何度も登ったので、最近は150mの大展望台で満足していますね。

(何の話だよ)

取得して損したこと・悪かったこと

取得して悪かったと思うことはありませんが、強いて言えば「時間と労力、お金」を注ぎ込んだということでしょうか。

そのエネルギーを別のことに費やしていれば、何か見えた世界があったかもしれません。

「肩書き」は日本国内限定だと思った方がいい

「1級」の「肩書き、証明」としてのパフォーマンスは確かに優秀ですが、問題点があります。

容易に想像がつくかもしれませんが、「英検」はあくまで日本国内で通用する資格試験。

海外の大学に留学する、MBAを取得する、などといった場合、肩書としてはまず役に立たないと思った方がいいでしょう。

ちなみに、日本や韓国などで人気の「TOEIC®テスト」などもそれに近いでしょうね。

やはり海外の大学やビジネススクールを目指すなどの場合は、より総合的な英語力が問われる、TOEFLやIELTSなどのスコアが求められます。

忘れてはいけないこと

肩書きなど、チャンスなど、色々と生意気なことを書きましたが、一つ忘れてはいけないことがあります。

それは、英語を習得することは「あくまでもスタートラインでしかない」という事。

英検1級を取ろうが、TOEICで満点を取ろうが、それは威張れる事ではなく、ただ「言語を習得した」ということに過ぎません。

だって、英語圏の人は、呼吸をするように英語をペラペラに喋れますから。

日本人が日本語を使うのと同じです。

もちろん、ツールとして、一つの武器になる事は違いありませんが、それで何かが解決するわけではないのです。

もし、外国語を必要とする環境に飛び込む必要があるのならば、言語が運用できることは最終的なゴールではなく、当たり前の大大大前提なのです。

中国人の店員さんが

「うちら、中国語しかしゃべれへんからなぁ。注文も中国語で頼んますわぁ」

って言ってくる街の中華のお店なんて、誰も行きたくありませんよね。

言葉というのは、そういうもの。

その文化で生活していくための、最低限のライフラインなのです。

そのライフラインを保つのが難しいからこそ、私含め、多くの日本人が苦労しているわけですが……。

ただし、メジャーで長年プレーした日本人選手の英語が上達していくように、

実際にその環境に身を置き、使う必要に迫られる事で身につく事もあります。

ですから、ライフラインである言語の「壁」というものを、必要以上に大きく恐れすぎないという気持ちも、大切だと思います。

 

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Dr.974

神奈川県出身の20代精神科医。「クリエイティブに生きる」をモットーに、サイト運営・小説執筆・写真など、種々の創作活動をしています。 海が好きで、休日は海沿いの温泉街に行くのが生きがい。お気に入りの町は熱海。

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