この記事について
愛媛県松山市にある戦跡「(第343海軍航空隊)掩体壕」を訪問してきました
松山空港付近にある「掩体壕」
愛媛県の玄関口、松山空港。
有名観光地の道後温泉に程近く、どこかのどかな雰囲気が流れる地方空港です。
そんな松山空港のそばに、第二次世界大戦の頃からの戦跡がひっそりと眠っています。それは「掩体壕」です。
大切な基地の飛行機を空襲から守るため、コンクリートで作った防御施設が「掩体壕」。
今も全国各地に散在しているこうした掩体壕ですが、ここ松山の掩体壕はそんな数少ない史跡の一つです。
この記事では、そんな「掩体壕」を訪問してレビューしてみると共に、当時の歴史を紐解きながら思いを馳せてみます。
掩体壕の歴史
今から70年以上前、戦争末期。
その昔、松山空港は、「松山飛行場」と呼ばれる海軍の飛行場でした。
松山飛行場には、ある伝説的な航空隊が拠点を置いていました。
「第343海軍航空隊」ー。通称「剣部隊」と呼ばれる航空部隊です。
1944年冬。すでに日本を取り巻く戦況は悪化し、対する連合軍に各地で制空権を奪われていました。
そんな劣悪な状況の中、「戦争に負けているのは空で負けているからだ。空から戦局を打開しよう」。
そんなモットーの元、戦局の打開のために結成されたのがこの343空です。
日本中からエース級のパイロットを集め、当時最新鋭だった戦闘機「紫電改」を配備。最強のパイロットに最強の戦闘機を組み合わせた、まさに最強の部隊の誕生でした。
その343空が当初拠点を置いていたのが、松山飛行場でした。掩体壕は、その343空が飛行機を秘匿するのに使用していたというわけです。
掩体壕の概要
松山空港付近には、こうした「掩体壕」が数基残存していますが、2022年現在、有形文化財として整備されている「掩体壕」があります。
平成30年に有形文化財に指定されたこの掩体壕。
地面は整備され、壕内にはきちんと解説板が設置されており、松山市の力の入れようが伺えます。
こちらは、当時343空の戦闘401部隊「極天隊」という部隊が使用していたもののようです。
343空にはいくつか部隊があり、特に有名なのは菅野直大尉率いる「戦闘301(新選組)」や、鷲淵孝大尉率いる「戦闘701(維新隊)」などがありますが、この極天隊はどちらかというと控え部隊のようなものだったようです。
感慨深いことに、壕内には今もなお文字が残っており、「極天隊」と部隊名が書かれています。
こちらの壕は、高速で知られた当時の偵察機「彩雲」のものだったという説があるようです。
アーチの左側には、部隊の通称「劍部隊」の名前が書かれています。
343空の活躍
ここ松山を拠点にした精鋭部隊、343空の名声は、決して名ばかりではありませんでした。
1945年3月19日。四国・九州に接近したアメリカ機動部隊から、300機以上の戦闘機・爆撃機が発進。彼らの目標は、重要な軍港都市、呉でした。
偵察機「彩雲」の情報からそれを察知した343空は、直ちに松山基地を発進し、襲いかかる敵の群れを迎え撃ちます。
日本海軍が誇る精鋭戦闘機隊は、その設立の目論見通り彼らと互角以上の戦いを繰り広げます。
約60機と数では劣勢ながら、敗色の濃い戦争末期において、多数の敵機(報告では57機とも言われるが、実際は過大報告だったよう)を撃墜します。
その強力さは米軍飛行隊を震撼させ、「かつて経験したことのない恐るべき反撃を受けた」と言わしめるほどの戦いを繰り広げたのでした。
掩体壕へのアクセス・関連リンク
松山市重要文化財の「掩体壕」は、松山空港から車で数分のところにあります。
一応、スロープもあるため車で進入することも可能ではありそうです。ただし、整備された駐車場があるわけではないので、大きな車で行くのはやめたほうが良さそうです。
終わりに
敗色の濃い戦争末期にあって、圧倒的な米軍と互角以上の戦いを繰り広げた精鋭部隊「343空」。
彼らの戦いぶりは、今もなお漫画や小説などに描かれ、多くのファンを集めています。
日本中から集められた、若き精鋭パイロットたち。彼らの胸には「故郷の空で、勝手なことはさせない」という気持ちがあったのでしょう。
日本の空とプライドを守った彼らの爪痕は、今もなお、松山の地に残されています。
松山観光に訪れた際は、松山市有形文化財にも指定された「掩体壕」を、ぜひ訪れてみてください。
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